変わるを受け入れると進化する
自分に関わらず、周りの環境、社会、文化、地域、気候、人間、すべての物事が毎日毎秒変わっていく。
変化していく毎日に適応できず、適応できない自分を正当化し、自分以外が変化していくことに文句を言い始めると、「老化」に一歩を足を踏み入れたのではないかと思ったりする。
当たり前だけど、人間を含むすべての生物は地球という環境の中に生きる。
ただ、人間は文明を発達させることで、本来変わりゆく環境を停滞させようと試み続けている。
外的環境の影響を受けづらい、建物を建て、その中でエアコンやらストーブを駆使して、夏は涼しく、冬は暖かく過ごす。
暗くなれば電気をつける。食材を長く食べるために、冷蔵庫をつける。その他もろもろ。
だから、僕達は機械の力を借りて、安定した生活を送っている錯覚の中で生きているだけに過ぎない。
一方で、そんな錯覚の生活に飼いならされたことで、変化することについていけない人間が増えてきているのではないだろうか?
変化についていこうとしているのは、どちらかと言えば家電メーカーであって、その恩恵を受ける人間ではない。
でも、生身の人間が変化についていこうとしなければ、根本的解決にはつながらない。
そんな変化に適応・順応することが「進化」になるのではなかろうか?
母なる海で生まれた微生物達。
フワフワ漂って、餌が口に入ればラッキー!な生き方をしていては効率が悪い。
餌のあるもとに動くためにヒレをつけ進化をした。魚だ。
そんな魚が海の中に増えると競争が起きる環境に変わっていった。
彼らは陸を目指す。
でも、彼らにはヒレしかない。長い時間をかけてヒレを手足に変えた。両生類だ。
やっと上陸を果たした両生類だが、体が乾くと死んでしまう。
湿地にばかり、両生類が増え、また競争が起きる。
遠出が出来るようになるために、体に鱗を備え、乾燥に強くなる。爬虫類だ。
そして、空を飛ぶこと選んだ鳥類と、卵で産むことよりもより確実に子孫を産むことを選んだ哺乳類へと別れていく。
その傍らで進化できなかった者はどうなったのか?今でも、ひっそり表舞台には立てずに生きているか、絶滅したかだ。
僕達は変わらないことを求めるのでなく、変わりゆく世界の中で僕達自身も変わっていかなければならない。
何故か?答えは明白。
社会の片隅で生きることになるか、絶滅するかのどっちかしか選べなくなるから。
では、また次の木曜日に。