遊びとは本能である

前年度、初めて卒園生を出した。

基本的にウチの方針は「やりたいことをやる」ということ。

それもあって、ひたすら4年間「遊んでいた」。

”いつでも(When)”、”どこでも(Where)”、”だれとでも(Who)”、”なんでも(What)”使って遊んでいた。
5W1H”が目前ではないか!あとは"なぜ(Why)"と"どのように(How)"。

 今日はWhy「なぜ?」の視点から。

 

「なぜ遊ぶのか?」と考えた時、『楽しいから』、『やりたいから』という答えが湧くかもしれないが、どちらの答えも過去の経験が伴っているような気がしてならない。

「以前、〇〇をして楽しかったから。」と言った具合にね。

きっと『楽しいから』、『やりたいから』の向こう側があるはず。

僕は『本能』だと思うのです。

『楽しいから』というのは、また先の話。

本能的な動きの中に楽しいピースがある。

 

例えば、「掴む」という動作を獲得した子はひたすらに草をブチブチと抜き始める。

モンテッソーリ教育であれば、「敏感期」という言葉がきっと使われて、『草を抜きたい衝動が抑えられない時期』だとするであろう。これに近い。

 

『本能』ってのは、先天的に持っていて、後天的に教えたりして身に着けるものではない。

人間でも教えられなくても乳首に吸い付く力が本能的にある。

本能的に身に付いていないと生きていけないから。

 

同じように言葉を持たない野生動物達も本能的に身に付いている能力が多数あり、どれも生きていくために必要なこと。

そして、ある動物達はそれに加えて「遊び」を通して、「本能的」に狩りを覚えていく。

狩りを覚えないと生きていけないからだ。遡れば、遊ばなければ生きていけないということ。

 

きっとこれは、野生動物だけに限らず、原始的な生活をしていた人間においてはほぼほぼ近い位置にいたのではないかと思う。

更に、そんな人間達から発展してきた現代の人間達にとっても必要なはずなのだ。

現代において「生きていけない」=「職がない?」になるのかな?これについてはまた今度。

 

なにせ、大人達が「遊ぶ」ということを、生きる上で”余分なこと”、”しなくてもいいこと”と考えることが大きく占めていて、子ども達が制限されていることがとても多い。

実は、僕達大人がやっている1つ1つの行動のほとんどが、「遊び」から発展したことじゃないかな?とか、「遊ぶ」を見直すことが出来たらいいな。

そこまで、感銘を受ける文を自分が書けるかは別として(笑)

 

では、また次の木曜日。