どのように遊ぶ
前回は「Why(なぜ)」の視点で『遊ぶ』を見たので、今回は「How(どのように)」の視点から。
遊びが始まると、時間と共に
①「なぜ遊ぶか?」
②「本能的に遊ぶ」
③「遊びが楽しくなる」
④「繰り返し遊ぶ」
⑤「上手に遊ぶ」→③~⑤の繰り返し
の流れが出来るだろう。
この④~⑤の繰り返しの中で、知的生物ならではの”工夫”ってのが出てくる。
例えば、「Aという場所からBという場所へ石を1つずつ運ぶ」遊びをしていた子がいたとする。
自分が物を持てる感覚、運べる感覚、石を落とした時にコツンと音がすること等、おそらく色んな要員が重なって楽しくなってきた。
でも、これを繰り返す内に、「もっとラクに石を運べないだろうか?」と考え始める。
もしかしたら、AからBへ石を投げることを始めるかもしれない。1つの石でなく複数の石を一度に運ぶようになるかもしれない。
僕はこれが遊びの中で育つ「How(どのように)」だと思うのだ。
自分がやりたいからこそ、楽しいからこそ、見つけ出していく自分の中だけの最良の答え。
これがあるからこそ、人間は発展していく。
これを幼い内から育てる方法が「遊び」だと思ったりもする。
だから、「遊び」というものは幅広ければ幅広いほどいい。
範疇が広いほど、「どのように」も広がる。
例えば、玩具であったり遊具であったりするものは、形がある分遊び方の幅は狭い。
その形を壊して、再度構築出来るようにし、遊びの幅をリセット出来るようにしようと発想して出来た玩具が「レゴ」なんじゃないかなぁ?
玩具を伴わない遊びでも、「ルール」を伴わない遊びの方が幅は広い。
ルールを伴わない本能的な遊びから、「どのようにしたら、面白くなるだろう?」と自分でルールを設定していく過程に意味がある。
ここで言いたいのは、「どのようにを考える幅広さ」だけで物を言っているから、玩具とか元々ルールがある遊びがダメなわけではないってこと。
遊ぶ時間が短いのに、ゼロから遊びを作らなきゃならないってのは大変なことだしね。
現代社会に生きる大人達は、ある意味様々なルールに縛られている奴隷のようだ。
そのルールが限りなくゼロの状態で生まれてくる子ども達。
出来る限り、奴隷状態の大人達に縛られることなく、よりよい「どのように」を考えていってもらいたいなと思う。
では、また次の木曜日に。