諸行無常
『万物は全て変わりゆくもの』
「万物」はなんて書き方をすると、厳かなイメージを勝手に持って、「自然界」みたいなイメージをするかもしれないけれど、決してそんなことはない。
僕達は当たり前のように文明社会に属し、その文明社会の中で当たり前のように機械を使うようになり、機械なしでは生活できないというところまで来たように思う。
ある意味、機械は僕達を裏切ることはなく、ボタンを押せば要望通りに応えてくれて、壊れることは無い。
ただ、例えば掃除機は掃除するものでだったり、洗濯機は洗濯するものだったりで、それぞれに用途が決まっていて、掃除機で洗濯したり、洗濯機で掃除をすることは出来ないわけだ。
この点で機械は「変わることができない」。
故に、「変わらない」ということに絶大の信頼を置いている。
そして、「変わらない」ということはとてもラクな部分が多い。
こちらの心づもりなりをわざわざ整える必要がないから。
といっても、機械であったり製品であったりも、生産している企業が時代の流れを汲んで、新しいものを作っていけば、それまでの製品は使えないものとなり、最終的に本当に使えなくなったりするんだけどね。
今、現在の色んなアプリが出ては消えていくのも同じような構図だろう。
ガラケーもなくなる運命にあるし。
人も変わる。
「言ってることが違う!」とか言って「わーわー!」言う人が多くて、そう言ってる人達の気持ちもわからんでもないけど、やっぱり変わるのだ。
見えないけれど、確かにあるものに「心」というものがあって、”喜怒哀楽”というものがあって、”喜怒哀楽”なんて単純な言葉で片付かないほど、多種多様な感情が人の心を取り巻いている。
これだけ感情が目まぐるしく変わるってのは、どんな人間でも納得できると思う。
悲しかったり、怒ってたりするから、いつも出来ることが出来なかったり。
喜んでたり、楽しかったりするから、いつもは出来ないことが逆に出来るようになったり。
心が原動力になって、人は行動が変わる。
人の言うことややることが変わるなんて当然のことなんだ。
でも変わってしまうと、その行動を「信頼していたのに!裏切者!」とかプンプンと怒る人が出てくる。
「信頼するな」とは言わない。でも、『人は変わるもの』というベースを受け入れているのといないのでは全然違うだろうなとも思う。
というか、自分以外の他人が変わったやなんやで怒ったりするの、しんどくないのかなぁ?
どんな環境の変化も受け流す、ヤナギの木のようになりたい。
では、また次の木曜日に。