死を語り合うこと

『クリスマスイブだっていうのに、なんつータイトルだ…』と思われるかもしれないが、仕方ない。今日はこれを書きたくなったのだから。

 

時折、奥さんと「死」について語り合うことがある。

ちなみに、僕は免許証の裏側の臓器提供について、”眼球”を除いて、全部OKにしている。

「最後の死に顔を誰かに見られた時に、目が無いってのは不気味な気がする。」という理由で眼球はNG(笑)

 

で、何を話すかと言うと、脳死したり、植物人間状態になったり、何らかの延命措置が必要でないと生きられない状態になった時は、延命せずにそのまま死なせて欲しいと伝えたり。

 

葬儀はお金がもったいないから、”直葬”にして欲しいと言ったり。

(※直葬とは、葬儀諸々をすっ飛ばして、そのまま火葬場に運んでもらって、焼いてもらうこと。日本では、火葬をする以外に遺体を処分する方法がないらしい。)

そう言うと、「せめて、親しい人に伝えたいから、お葬式はしたいなぁ。」なんて言われたが、

「えー、そこは遺言を尊重してよー。」なんて言い返したり。

 

そもそも、なんでお葬式なんてものがあるんだろう?

宗教的に”しなければならないもの”というのは置いておいて、ほぼほぼ遺族のエゴじゃない?なんて思ったりする。

自然界に生きる動植物のように、死んでしまったら死んでしまったもの。

あっけなく、その事実を置き去りにして、社会が、近しい世間が今まで通りに回って欲しい。

 

子ども達に引き抜かれて命を絶つ草花のように。

子ども達にいじられて弱り果てて、命を絶つ昆虫のように。

食べられるために生まれ、"と殺"される家畜のように。

生まれる前に食べられる、卵のように。

どこかで誰にも知られることなく、1人寂しく消えゆく命のように。

 

本当は死んだらそのまま、土に還りやすそうなところに放置しておいて欲しい。

一番コストがかからず、生き物として一番自然な死に方だと思うから。

でも、この国ではそれが許されず、火葬しなければならないルールがある。

それに乗っ取って、一番ローコストな”直葬”を受けたい。

 

そんな話をしていたら、「あなたのいない人生は辛すぎるから、後追いすると思う。」と言われたり。

「まぁそれもいいんじゃない?そこからの人生に俺は関与できないもんね。だから、直葬は叶えてね(笑)」と伝えたり。

 

生きている限り、いつか死ぬのだ。

それが早いか遅いかはそれぞれで、必ずやってくる。

そんな「死」をタブー視してはならないと思う。

一生を連れ添うパートナーの死であれば、早い内からフランクに話して、少しでも構えているといざという時、心的に救われるのではなかろうか?

 

では、また次の木曜日。