前向きに死ぬ
『何のために生まれて 何をして生きるのか わからないまま終わる そんなのは嫌だ』
みなさんご存じ「アンパンマンのマーチ」の一節。
昔はこれを聴いて、「そうだよな、何となく時間を過ごして生きて、何となく死にたくないよな。」と胸を熱くしたものだったが、今は少し冷めている。
何故生きるのか?
僕の答えは「生きているから、生きるのだ。それ以上もそれ以下もない。」である。
何かを為さねばならないわけでもなく、何か生きる意味を設ける必要があるわけでもない。
誤解しないで欲しいのは、崇高な目標を持って生きることを否定しているわけではないということ。
それはそれで素晴らしいと思うし、目標を見つけられたことは幸せなことだと思う。
ただ、全ての人がそれらしい答えを持たなければならないことはないと言いたい。
「生きていること」。ただそれが最上の幸せだ。
それ以上に何かを求めさせるのは、正義なのだろうか?
それ以上のことを求めるが故に、五感を使って世界を感じることや、当たり前のように寝て起きること、空気を吸って世界を駆け回れること、そんなある意味ハードルの低い幸せが無いものとなってしまうのではなかろうか?
そんな風に考え始めると、現状に満足してしまう。十二分に幸せだから。
僕が今仕事なりなんなりを頑張れているのは、僕自身の幸せもあるけれど、主たる理由ではない。
僕の周りの誰かが幸せになるから、頑張れる。誰かのために頑張れている。
この誰かがいなくなった時には、僕は生きがいを無くすんだろうな。
だから、よく「明日突然死んだら…?」みたいな問があるが、僕はあと1日しかないと言われても特に何も焦ることなく死を受け入れる。
ただ僕が気になるのは死に方だ。
自殺を選ぶと周りの人間に「なぜ相談しなかったんだ!」と言われるだろう。だから、イヤだと考える。
誰かに殺されちゃっても、周りの人間は加害者を恨むようになり、負のエネルギーに包まれた生き方になるだろう。だから、イヤだ。
結論、おとなしく生きて自然とくたばりなさいってなるんだけどね。
何にせよ、死ぬ時に後悔しても何も報われない。
だからこそ、日々日々を「明日死んでもいいな。」と感じて生きることが大切。
「死ぬ」というワードはとてもネガティブで、公の場で発するべき言葉でもないが、誰しもに訪れる運命。
真向から前向きに死を受け入れるためにも、死を考えて生きることはアリだと思うのです。
では、また次の木曜日。