叱ることが無気力を育てる

今、ほとんどの大人達が、一般的な子育ての方法として、子どもを大人の思うようにコントロールすることを主軸に置いて、支配的なアプローチで関わっている。

なぜか?多分その大人達の頭の中には、目の前にいる子ども達が達するゴールが描かれてしまっていることにある。

そのゴール像が大人になってないだろうか?

 

目の前の子どもを頭に描いているゴール像(=大人像)に近づけるためのアプローチ。

これの何が問題かというと、ゴールが見えているがゆえに、アプローチが一本道となってしまい、型にハマった子育てになってしまうということ。

そして、その一本道から外れるような行動をすると、「叱る」ことでその一本道に戻そうとする。

これがある意味、一般的な子育て方法ではないかと思う。

 

この「叱る」という行為。「ダメ!」という悪を是正するような言葉。

目の前の子どもに本当の意味で届いているだろうか?

おそらくだけど、本当に悪いことをしてやろうと思って、問題行動をしている子はほとんどいないように思う。

多くは、例えば物の取り合いで力が行き過ぎてしまって相手を泣かせてしまったり、自分が会得した能力を試したいがために失敗してしまったり(※)。
(※棒状のものを振り回す能力を人の目の前で使う。物を落とす能力を食事中に使う。etc)

 

元々のエネルギーの源は、「〇〇したい!」という純粋な探求心。

そのエネルギーの強さであったり、方向を誤った故に、問題行動になってしまっているだけ。

それを大人達は”悪”と受け取り、是正しようとする。

この大人の行為を子どもは納得できるだろうか?

そもそも、その子どもは悪事だと理解できるほど、発達している状態だろうか?

もしも、理解できるほど発達していないのであれば、「ダメ!」って言葉かけは全くもって意味がない。

”失敗すること=ダメなこと”という強い印象だけが残ってしまう。

そうなると、失敗したくない人間が出来上がり、「指示待ち人間」だったり、「無意欲人間」が出来上がる。

 

だから、その行為そのものを「ダメ!」と止めてしまうのではなく、行為のエネルギーの強さであったり、方向を修正するような言葉がけの方が望ましい。

例えば、人の持っている物を取り上げてしまうのであれば、力でなく交渉しようとか。

人前で棒を振り回すのが危ないのなら、人がいない所で振り回してもらうとか。

そうすれば、子どもの「〇〇したい!」という欲求は守られたままかつ、子ども目線で見れば「ダメ!」と否定されるよりも、『僕の主張は受け止めてもらえた。』という想いも育まれる。

その方が子どもと大人の信頼関係が育まれ、緊急時の「ダメ!」がより子どもに伝わるんじゃなかろうか。

恐らくそんなことよりも、今その場を収める手軽さを求めるがゆえに、「ダメ!」で子どもを支配してしまうんだろうけどさ。

 

もう何度か書いてるけど、型にハマった事ってのは全部ロボットなりAIがやってくれる時代になる。

そんな中で型にハマった人間や、指示待ちしか出来ない人間は中々輝くことは出来ない。

どうすれば幅を持った子どもを育てることが出来るかを考えなければならない。

 

では、また次の木曜日に。