手を伝う、手伝い

「生理的早産」という言葉がある。

例えば、生まれたての小鹿がヨロヨロしながらも立ち上がるシーンを見たことがあるだろうか?

小鹿はものの数分もしない内に立ち上がり、1時間も経たぬ内に、辺りを走り回る。

 

対して人間は、もちろん生まれたての時点では立つことは出来なくて、文字通り「何も出来ない」。

他の哺乳類に比べて、人間は1年早く生まれてくるともされている。

この様を見て、「子宮外胎児」なんて言葉が使われたりもする。

 

と、こんな風に生まれたてはどの生き物よりも劣っているように見えるが、脳みそはどの生き物よりも発達していて、他の哺乳類のように、もう1年間お腹の中で過ごしてしまうと、脳みそが大きくなって頭が大きくなって、お腹から出て来れないらしい。

だから、1年早く出てきて、保護が不可欠な状態で生まれてくるそうな。

 

子どもが主体的に生きるためには、大人側の手伝い方というか手伝いの質も問われてくるように思う。

しかし、大人達は、特にその子の親は、生まれてきたばかりの何も出来ない状態から時間を共にしてきていて、「この子は何も出来ないから、何でもしてあげなきゃ。」と考えてしまうのかもしれない。

でも、何もかもを大人がしてしまって、子どもが何も自分の力で乗り越えなければ、何も成長出来ない。

 

そして、子ども達もそんな風にずっと支えてきてもらってるもんだから、すぐに「無理。出来ない。」という。

そこで、「やってやるか。」と引き受けてやってしまうのも優しさだとも思うけど、「一回やってごらん?出来なきゃ手伝ってあげるから。」とか、「出来るところまででいいよ。難しかったら手伝ってね、って言ってね。」とか、ひとまず子ども達の手を動かす機会を作ることも大事じゃないかなと。

 

例えば、ズボンを上げる時にお尻が引っかかって上げられない。重たいものを持とうとして持ち上げられない。

そんな時に、ひょいっとズボンを大人のみの力で上げてしまうのでなく、ちょっぴりズボンに手をかける子どもの手に触れながら、一緒にズボンをあげる。

重たいものをひょいっと持ち上げてしまうのでなく、それに手をかける子どもの手に触れながら、一緒に持ち上げる。

そうすれば、100%大人の力で解決したのでなく、1%でも自分の力が加わっていると感じられるのではないだろうか?

今は1%だけど、この1%を育てればいいんだ!と思ってくれるのではないか?と考えながら、子ども達とそんな付き合い方をしている。

 

もちろん、何でもかんでも子どもの手を触れながら出来ることではないから、その時は相手の心に自分の心が触れているという実感を出来るだけ持ちながらやっている。

「手伝う」っていうのは、ただ子ども達の望みを叶えることじゃないと思う。

「今は難しいけれど、いつかは出来る。ずっと出来ないことじゃない。」と感じさせてあげることが大事に思う。

そして、その考え方を出来るだけ幼い内に育んであげることが、ある意味ラクな子育てにも繋がっていくんじゃないかなとも思う。

 

『手を伝う、手伝い』

手から手へ、想いを伝えていきたい。

 

では、また次の木曜日に。