機械になりたい人間達
「色んなやりたいことに手を付ければいい。」と思う一方で、ここ最近増えている「ながら〇〇」にはすごく違和感を覚えている。
機械が生まれたおかげで生活のあらゆる場面が自動化された。洗濯、食器洗い、掃除etc...
自動化されているのものを横に置きながら、人間が能動的な作業をするのならまだわかる。
洗濯機を回しながら、本読んだりとか、外出したりとかね。
でも、スマホを見ながら歩く。よく言う、「ながら歩き」は違うと思う。
多分はじまりはポータブルオーディオとか携帯ラジオで耳を傾けながら歩くにはじまった。
それが携帯になって、広い視野を持って歩いてたのが、狭い画面に目線を落としながら歩くようになった。
加えて、その状態で自転車や自動車に乗る人が出てき始めた。といった具合。
僕が言いたいのは、人間が誕生した20万年前から、人間の中身は基本的に変わっていないということ。
確かに電子機器はとてつもなく発達して、生活のあらゆる面が便利になった。
でも、それに伴って、人間の脳容積が大きくなっているだろうか?そんなことないわけだ。
樹上生活から地上生活に移行して20万年。
ようやく、生まれてすぐに枝や母体に掴まらなくても、落下せず生き永らえる個体が増え始め、握りこぶしでなく、パーの状態で母体から出てくる赤ちゃんが出てきたところ。
200万年かかって、ようやく樹上生活から地上生活に人間という生き物のプログラムが書き変わり始めたわけだ。
そんな生き物が今のデジタルに適応した生き物になっているわけがない。
電気も何もない中、せっせと火を熾し、群れで生き物を狩って生きていた僕たちの祖先。
1つ1つの事柄に対して、文字通り一生懸命に取り組んできたに違いない。
火を熾しながら、獲物を探すなんて横着なことはしていないはず。
そもそも、機械に頼り切って、自分の体を使わない”サボる”生活を目指す人類の身体的な能力が高まるはずがない。
機械はどんどん発達していくかもしれないけれど、反比例的に僕達の体で出来ることは劣っていく。
そんな現代の人類が、2つのことを同時に処理するなんてことが出来るだろうか?
きっとそれは処理出来ているように見えるだけで、2つとも100%の力は注げていないと思う。
逆に言えば、同時進行的に仕事が出来るのは機械だから出来ることなのかもしれない。
そう考えると、僕たちは機械を目指しているのだろうか?
人間味と言われるものは、僕達の生活にとって不要なものなのだろうか?
僕たちは機械のように2つのことを同時に進めることは出来ない。
でも、1つのことに愚直に取り組むことで、機械を上回る可能性があることを信じたい。
多種多様な選択が出来る時代ではあるけれど、選んだ選択肢1つ1つに心を注いで生きていけますように。
では、また次の木曜日に。