一つのことをやり続けないこと

子ども達と遊んでいると、僕達の想定には収まらない方向へ考えが飛ぶことで、今やっていたことをほっぽりだして別の遊びに飛んで行ったり、「なぜ今その話になった??」みたいなことが多々ある。

きっと一つの物の見方として、「この子は集中力が無いから、一つのことをやり遂げることがなく、他の遊びに行ってしまう。」見方がある。

確かに間違ってはいないだろう。でも、これが悪いばっかりではないんじゃないかなとも思う。

 

一つのことを繰り返すことで、どんどん上手になっていくのはわかる。

でも、それは自分の中に面白さがあってこその話。

以前、「敏感期」のことを書いたけど、自分の意欲・関心がその物事に向いているからこそ、繰り返すことに意味がある。

自分の想いがないのに、一つのことに心を注ぐのはどうだろうか?

それは機械のやることだ。心ある人間のすることじゃない。それか、自分以外の誰かに譲ったほうがいい。

 

仕事なんか本当にそれで、大してやりたくないことを何年も続けている人が多い。

地元の友人達も「朝早くて…残業がやたらあって…給料が低くて…」とか言いながら同じ職場に毎日通っている。

僕が「やめて別の仕事すれば?」と声かけても、動くことは100%ない。

この行為に何かを産む力なんてあるのだろうか?

 

きっとこの「一つのことをやり続けることが美徳」って考えは日本の教育・文化に根付いているもので、ある意味僕達はそれに洗脳されている。

「3年間は同じ仕事をしてから転職する。」とかわけのわからないことを言って、結局しない人間がどれだけいるか。その3年間にどれだけの意味があるのだろうか。

 

最初に戻るけど、色んなことに意識が飛ぶ子ども達を「楽しいことを見つけることに長けている」と捉えることは出来ないだろうか?

今やっていること、目に入った別のことをすぐに天秤にかけて、取捨選択する能力。

小学校に入るとあらゆることが強制される状況で、ある意味幼少期しか育てられない能力かもしれない。

 

世の中が加速度的に変わっていっている。

20年前携帯が出回り始めたのに、今では一人一台スマホの時代。

それのおかげでありとあらゆる常識が変わった。

こんな世の中で、ある一つのことに固執することはある意味危険なことではないか?

その固執している自分にとっての大黒柱が折れた時、自分を保てるだろうか?

 

例えば、保育士を長く続けて100人に1人の逸材になったとしても、保育士という職の価値観が変わった時、”100人に1人”という価値はどうなるだろうか?

例えば僕は、周りの人に比べると「保育士で(A)」、「木が好きで(B)」、「虫が好きで(C)」、「ちょっとギターが弾けて(D)」、というステータスがあるとする。

この(A)、(B)、(C)、(D)が全て10人に1人だとしても、”10×10×10×10=10000”になって、”10000人に1人”にもなりうるわけだ。

これは1つのことをやり続けた結果ではなくて、色んなことに興味を持った結果。

しかも、自分が楽しいと思えることだけ。自分が前向きな気持ちを持ったものだけ。

 

「器用貧乏」でいいんじゃない?と思うわけ。

日々日々、常識が変わる世の中。当たり前だと思っていたことが、当たり前でなくなる世の中。一つの太い柱があっという間に倒れてしまう世の中。

一つの太い柱で自分を支えるのでなく、たくさんの細い柱で自分を支えるのもアリだと思う。

 

だからこそ、色んな制約が無い時期に、楽しいと思うもの、やりたいと思うこと、いっぱいいっぱい触れて欲しい。

 

では、また次の木曜日に。