ゲーム脳がくれたもの
一つ前の記事の「夢中になる」といった考え方の続き。
僕は社会人になるまで、ほぼほぼ毎日のようにテレビゲームにのめり込んでいた。
テレビゲームに夢中だった。毎日のようにモンスターボールを投げたり、モンスターを倒したりしていた。
親からも何度も怒られたが、それは収まるところを知らなかった。
だから、「僕は一生にテレビゲームにハマり続けて死んでいくんだ。」と本気で思っていた。
大学生になると音楽を始めた。少しづつ、ゲームの時間が減った。
初めての彼女が出来た。少しづつ、音楽がおろそかになった。
社会人になり仕事は始まった。付き合いが悪くなった。
これは何故こうなったのだろうか?僕は夢中になったからじゃないかと今改めて考えている。
これをいいことか悪い事かと考えるのは、それぞれの人生観によることだろう。僕はいいことだと思っているけれど。
何故かというと、どの事柄に対しても夢中になったからこそ、何かしらの成果を得ていると実感があるからだ。
ゲームも音楽も前職の経験も、全ての経験が今の仕事に結びついている。
「努力」ももちろんあるが、一つ一つを好きになって「夢中になる」ことが出来たからこその今だ。
そして、この根っこを遡ると、僕の夢中になった根っこはテレビゲームなのだ。
親に怒られることはあったが、目の敵にはされなかった。
何かしらのルールの下、夢中になることを許されたように思う。
だから、僕は今野外保育という現場にいて、どちらかというとテレビゲームというものに批判的な母達に囲まれているが、僕はそれを否定できない。
というか、テレビゲームを否定してしまうと、僕自身を否定することになるからね(笑)
一つ前の記事で「夢中になるものはなんだっていい。」と述べた。
僕の場合はテレビゲームが起点だった。夢中になる対象がどんどん移っていって、今に至っている。
ただ、夢中になれたからこそ、移っていけている。もし、これが中途半端に外部の力によって止められていたら、それはわからない。
テレビゲームは親から見たら、やめてほしいものなのかもしれない。
でも、これが夢中になる力を育むと信じ、ずーっとゲームをやってるわけじゃないと信じることで、子ども達の中で承認欲求が満たされると、これまた信じることなのだろう。
結局は、色んなことを「信じる」ことなのかもしれないね。
では、また次の木曜日に。