わかりやすい言葉の弊害
SNSが普及して、世界中の誰もが発信できるようになった、全人類総発信の時代が来ている。
その中で、自分の書いたものを受け取ってもらい、「いいね!」してもらって”承認欲求”を満たすために、それぞれが試行錯誤している。
僕が思うに、「いいね!」してもらうための1つに”わかりやすさ”があるんじゃないかと思う。
Twitterなんかはそれが顕著で、”わかりやすさ”により拍車をかけるように140文字という文字数制限があったりする。
ある意味ちょっと長いキャッチコピーみたいなもので、わかりやすい短文がウケるわけだ。当たり前だけど。
このおかげで、あらゆることがわかりやすくなり、SNSを介して世界を見やすいものとなってきた。
でも、一方で長い文には蓋をし、わかりにくい文にも蓋をし、ある意味自分に不適なことは受け取れなくなってきてるのではなかろうか?
僕たちの思考には語彙が必要だ。
毎日毎日、瞬間瞬間で僕達の脳には様々なことが駆け巡り、色々な情報を処理し、行動に移すなどして、形にしている。
それらの情報は単にデータとしての情報ではなく、脳の中で言葉で処理している。
日々日々当たりまえのようにやっていることなので意識することは難しいかもしれないが、僕達は脳みその中で言葉を介して、様々なことを考えている。
時間に余裕がある時に、考えるということを考えてみると、多分理解できると思う。
そして、これらを鑑みると、語彙力が多ければ多いほど、思考の幅が広がり、より考えが深くなる。
何かに悩んでいるときも、ある一つの言葉を知っているだけで、それを切り口に解決に近づいてくることも多い。
何も難しい言葉でなくともいい。自分の中だけの造語でもいい。といっても、その造語を作るためにもまた語彙が必要になってくるんだけどね。
要するに、SNS上の共感を受けやすい・与えやすい言葉ってのはわかりやすさという指標が間違いなくあって、あまり種類が無いように思うわけ。
でも、僕達人間の心ってのは全然わかりやすくないわけで、そんな万人受けするような言葉では理解できない部分が多々あるわけで、そのためにはもっと色んな言葉に触れるべきではないかと。
SNSの世界に浸っているとバカになるというか、色んなことを考えられているようで大したことを考えられていないという現象に至ると思う。
だから、生の人間の言葉を聴いたり、本を読むことで自分が触れたことのない言葉に触れる機会が語彙を増やす=思考に幅を持たせるためにも必要。
では、また次の木曜日に。