betterを選ぶ
人生は選択の連続だ。
ほぼほぼ意識して生活していないけれど、朝起きるところから寝る所まで、ずっと選択し続けている。
二度寝するのか。歯を磨くのか。米を食べるのか、パンを食べるのか。
こんな選択が毎日毎日行われている。
しかも、選択するということはエネルギーを使う行動で、一日で選択出来る回数は決まっているらしい。
ゆえに、ルーチンを作って、なるたけ選択する機会を減らして、重要な場面で選択出来るようエネルギーを残しておくという考え方もある。
といっても、ルーチンを実行するというのも、最初はやっぱりルーチンを選択する必要がある。
そんな具合で、生まれてから死ぬまで僕達は何かを選択し続けるのであろう。
で、AかBを選ぶに当たって、色々な判断材料がある。
「こちらの方がいい(better)」、「これが一番いい(best)」、「これをすべき(should)」、「これでなくてはならない(must)」などなど…
『選ぶ』ということは、2つ以上の物を比較して、いい方を選ぶわけだから、僕は全てが”better”であるべきだと思う。
しかし、この社会は全てが個人のbetterでは難しい場面が多々ある。
社会的に、または自分の育ちの上で、shouldとmustが首をもたげる。言い方を変えれば『常識』ってやつだ。
常識、ルールのおかげで、AとBの選択肢があるにも関わらず、見た目上Aの選択肢しかなかったりする。
言うならば、思考停止状態だ。
同じように、一番いいというbestな考え方も常識に捕らわれている可能性が高い。
一番いい、一番悪いは疑ったほうがいい。
この世において、”一番”なんてことはほぼほぼ無いってぐらいに。
その常識が正しいなんてわからないじゃないか。全てのケースに適用するかわからないじゃないか。
自分の頭で、何かしらを選択するべきだ。
自分の頭で考え、選択するからこそ、その選択に責任が芽生え、僕達は自分の思う人生が歩めるんじゃないだろうか?
must、should、bestと自分の頭の外からやってきたルールや常識とやらに操作されていたら、僕達の人生は大昔を生きてきた人間の枠にハマった歩み方しか出来ない。
そして、常識に従って人生を選択してしまうと、自分の人生なのにどこか誰かのせいにしたものになってしまう。
僕達は選択することで、日々日々足を向ける方向を変え、時には後ろに戻ることで、人生を進めている。
決まったレールの上を進むのはラクだ。でも、決まった場所にしかたどり着けない。
あなたは本当にその決まりきった駅に到着したいのだろうか?
どの駅に向かうかは、自分がどの切符を買うかにかかってる。
では、また次の木曜日に。