プレ教育について
「プレ教育」なんて書き方をすると、「なんだそれ?」と思うかもしれないが、ほとんどの日本人はその術中で生きてきているんじゃないだろうか?
未満児は「年少さんになったら、こういうことしなきゃいけないんだよ。」
年長児は「小学生になったら…」
小学生も「中学生になったら…」という具合に、未来を先取り・先回りする形でほとんどの人達が教育を受けてきたんじゃなかろうか?
僕はいつも疑問に思う。
「そんな先回りばっかりしていて、いつ”今”を過ごすのだろうか?」と。
今は今しかないのだ。今しか過ごせないのだ。
未来はイメージの世界だから、いくらでも不安になることが出来て、その不安に際限がない。
だからこそ、今しかない時間をその不安に投資するのだろう。
結局は不安なんだろうな。
不安だから、先取りしてなんとかしようとしてるんだろうな。
例えば、「小学生になったら楽器に触れるから」、「縄跳びをするから」などなど。
そんな理由を並べて、今から触れさせておくべきだという考え方がある。
そら、山ほどの”初めて”と出会うだろう。初めての場所に行くのだから。
もちろん、この考え方を否定するわけじゃない。
でもね、それこそ際限がないわけだ。楽器に触っても、縄跳びを経験させても、他にもいくらでもあるでしょうよ。
算数を先取りして教えるのかい?逆上がりを先取りして教えるのかい?
小学生になってからが良いと考えられているから、小学生でやるんでしょ?
それを未就学児にさせることに、どこまでの意味があるんだろうか?
この未来を先取りする行為は何度か言っていると思うけれど、大人が子どもの人生にレールを敷くようなものだ。
そんなレールを敷くような教育を小さい頃から根付かせてしまうことで、結果的にレールを敷かれていないと、人生を歩めない人間になってしまう。
このレールは最悪の場合、大学に進学するところまで敷かれている。
いい幼稚園、いい小学校、いい中学校、いい高校、いい大学とレールを敷かれた人間は”人生の夏休み”とも言われる大学に入って、何をしたらいいかわからなくなる。僕もその一人だった。
僕は大学に入って、「ただ敷かれたレールを歩いてきただけだったんだな。」ということを、初めて理解した。
この時点で、自分から体験をつかみ取って、夢中になるって体験をしてきていなければ、ここから自分の足で歩むことはなかなかに難しいのではないかと思う。
今日はここまで、また次の木曜日に。
習慣が人を作る
元々、ルーティンってやつが好きで。
でも、なんで好きかはわからなくて。
好きといっても、そのルーティンが崩れると、狂いそうになるとかそういう類ではなかった。
最近、モーニングルーティンってやつをめっちゃ意識して取り組んでいる。
①起床
②歯磨き
③朝日記
④今日のタスクの確認
⑤筋トレ
⑥読書ノート作成
の流れ。
これをこなすためには、ギリギリまで寝ていたら全く出来ないから、早起きする必要があって、そのために5時前ぐらいにいつも起きてる。
色んな本にも書いてあって、僕自身納得したのは、僕たちの生活の中には幾多の”選択する場面”があって、僕達も選択出来る回数が日々決まっているというもの。
何かを決める、選ぶ、判断する、その他もろもろを頭の中で行える回数が1日ごとに決まっているという話。
もちろん、この回数には人それぞれの回数があって、選択する事柄によっても、その日の体調によってもこの回数は増減するし、トレーニング次第では増やすこともできる。
ただ、この選択する回数の限度を超えてしまうと、その日の活力は失われ、”疲れた”という状態に陥るという考え方。
僕はしっくりきた。
そこで、ルーティン、習慣に話を戻すと、ルーティンってのは色んなことをしているようで、選択する力を消費しない場面が多い。
例えば、歯磨きなんて、「右側から磨こうか…?左側から磨こうか…?」なんて考えていないと思う。
もう習慣づいていることだから、考えることもしない。体が覚えているような感覚。
だからこそ、「あぁしよう、こうしよう」がなく、頭を使わないで、選択する力を使わないで、色んなことに取り組めるってのは習慣の力であろう。
ただ、ルーティンを作ることだけでなく、新しく何かを始めることは労力が伴う。
そこを乗り越えるのが大変なんだよな。
僕自身は、自分を使った実験だと思って取り組んでいる。
例えば、朝日記なんかは、毎日書いていくから、毎日の積み重ねが可視化されるし、筋トレも体つきが変わっていく。
やっぱり成果がないとやる気に結びつけるのは難しい。
なんにせよ、僕たちは「変える」って考えるから、変えた後の成果を求めたりして、体が動かなくなることが多い。
「試す」程度なんだよな。試して試して、成果が見えてきた時には、もう自然と何かが変わっている。
「ちょっとやってみるかー」の積み重ねで人生が変わるかもしれない。
僕はそれをルーティンで実験中。
では、また次の木曜日に。
誠実さ
いつ書いたか覚えてないけれど、「信頼感が全てだ。」と書いた。
物事の価値観であったり、人が人を動かす原動力であったり。
「人を動かす=社会・世界を動かす」可能性もあるわけで、やっぱりこの世の全てだと思う。
じゃあ、信頼感ってどうやって培われていくものなのだろう?
一つに”誠実さ”ってのがあると思う。
じゃあ”誠実さ”ってなんだ?
そこで、「例えば、みんなが誠実さを求めているものってなんだろうか…」と考えた時、政治(≒政府?)が浮かんだ。
正直、僕は政治ってものにあまり熱心な方ではないけれど、「しっかりして欲しいな…」とは多くの人と同じように想いを持っている。
で、政治にどうあって欲しいか。
結論からいうと、「ウソをつかない。」ということ。
『説明責任がどうのこうの~!』
『解釈がどうのこうの~!』
とか、なんか色々言われるじゃない?政治家の人達って。
よくわからんけど、紛らわしいことを言った言ってないの論争から始まって、最終的に、「ウソでした。ごめんなさい。」がよく見る政治の世界。
この「ウソでした。ごめんなさい。」が誠実さに欠け、信頼感を損なっていくのではないだろうか?
なら、これを言ってしまうシチュエーションにならなければいいわけだ。
それは上手くウソをつくという、ボロが出るか出ないかという手段を取るのではなく、根源から絶つ。
いろんなことを話すのが政治の場でしょう。
色んな想いが交錯して、一般市民の僕達に取っての悪法が提案される時もあるでしょう。
でも、その時に、「富裕層に向けての法案であって、一般市民向けではありませんでした。」と真向から言えばいい。例えばの話だけどね。あり得ない話だけどね。
ウソでないから、そこで一般市民は良い思いはしないけれど、「この人はこういう人なんだ。」とある種の確信を得る。
フワフワしているウソツキは良くも悪くも確信を得られない。
例えば、トランプさんも過激な発言大好きで、「めちゃくちゃ言ってるな…」と思うことが多々だけど、彼の言葉にウソを感じないから、「めちゃくちゃなこと言う人なんだな。」という確信を得るわけだ。
彼は支持者さえ納得させられたら、それでいいと思っているかもしれないね。
何のために〇〇をするか。
その「何のため」の中には、間違いなく多くの人がいて、彼らと信頼感を育むためには「ウソをつかない」ということ。
まだ書き足りないから、またどこかで続き書きます。
では、また次の木曜日に。
学ぶということ
2020年も終わりですな。
僕は今年、「寝る前に1ページでも1文字でもいいから本を読む」ということを習慣づけようと頑張りました。
その結果、1年で90冊近く読めた。
これまで年間1~2冊しか読んでなかった僕からしたら快挙。読書家の人は100冊とかザラなんだろうけど。
でも、これらの本はほぼほぼ電子書籍で読んでいて、それのおかげってのが大きい。
意味のわからない単語はその場で意味を調べることが出来て、「いいね!」って思った場所には、躊躇なく線を引ける。
読んだ後に、線を引いた場所を振り返ることが出来る。
最初は読書ノート的にしっかり要点をまとめていたりもしたけど、もうめんどくさくなって、線を引いた場所をメモるぐらいで留まっている。
まぁ、電子書籍はいいね!って話はこの辺で。
今年、たくさん本を読んで、「学ぶ」ということを再確認した。
何のために学ぶのか?
僕は『先人・賢人たちの知恵を借りて、自分の目の前の困難を乗り越えたり、よりよく生きるためのヒントにするために「学ぶ」のだ。』と考えた。
決して、知恵を仕入れることで誰かと比較して自分が優れていると悦に浸ったり、どちらが優れているかで点数をつけたりするものでない。
あくまで、自分の為だ。対人関係のコミュニケーションスキルの本を読んだとしても、対する誰かのためでなくて、「誰かに対する自分のため」だ。
そもそも、今同じような境遇に生きていても、生まれも違えば、生活環境も異なり人間を、同じ土台で比べることが間違い。
もちろん、得意な分野も異なれば、苦手な分野も異なる。
それを全部一緒くたに評価できるわけがない。
比べられるのは、昔の自分と今の自分だけ。
学んだ知恵で昔の自分と何が変わったか、何が出来るようになったか。
しかも、知恵というものは盗まれたり、壊れたり、無くなったりすることがない。
多くの人がお金が全てと必死にお金を集めている。
そのお金で良いものを買って、その物が自分の力であると勘違いしている。
例えば、スマホがすごいだけであって、あなたがすごいわけではない。
最近はそれが見直されて、お金を物に使うのでなく、体験に使おうという流れも出来てきた。
体験も思い出も、知恵を同じく、その人だけに価値をもたらすものだ。
学ぶってそういうことだと思う。
あくまで自分の為。それが故に、主体的に掴みにいくものだろう。
誰かに「学べ。」と言われたり、誰かと比較するために行うものではない。
では、また来年。
死を語り合うこと
『クリスマスイブだっていうのに、なんつータイトルだ…』と思われるかもしれないが、仕方ない。今日はこれを書きたくなったのだから。
時折、奥さんと「死」について語り合うことがある。
ちなみに、僕は免許証の裏側の臓器提供について、”眼球”を除いて、全部OKにしている。
「最後の死に顔を誰かに見られた時に、目が無いってのは不気味な気がする。」という理由で眼球はNG(笑)
で、何を話すかと言うと、脳死したり、植物人間状態になったり、何らかの延命措置が必要でないと生きられない状態になった時は、延命せずにそのまま死なせて欲しいと伝えたり。
葬儀はお金がもったいないから、”直葬”にして欲しいと言ったり。
(※直葬とは、葬儀諸々をすっ飛ばして、そのまま火葬場に運んでもらって、焼いてもらうこと。日本では、火葬をする以外に遺体を処分する方法がないらしい。)
そう言うと、「せめて、親しい人に伝えたいから、お葬式はしたいなぁ。」なんて言われたが、
「えー、そこは遺言を尊重してよー。」なんて言い返したり。
そもそも、なんでお葬式なんてものがあるんだろう?
宗教的に”しなければならないもの”というのは置いておいて、ほぼほぼ遺族のエゴじゃない?なんて思ったりする。
自然界に生きる動植物のように、死んでしまったら死んでしまったもの。
あっけなく、その事実を置き去りにして、社会が、近しい世間が今まで通りに回って欲しい。
子ども達に引き抜かれて命を絶つ草花のように。
子ども達にいじられて弱り果てて、命を絶つ昆虫のように。
食べられるために生まれ、"と殺"される家畜のように。
生まれる前に食べられる、卵のように。
どこかで誰にも知られることなく、1人寂しく消えゆく命のように。
本当は死んだらそのまま、土に還りやすそうなところに放置しておいて欲しい。
一番コストがかからず、生き物として一番自然な死に方だと思うから。
でも、この国ではそれが許されず、火葬しなければならないルールがある。
それに乗っ取って、一番ローコストな”直葬”を受けたい。
そんな話をしていたら、「あなたのいない人生は辛すぎるから、後追いすると思う。」と言われたり。
「まぁそれもいいんじゃない?そこからの人生に俺は関与できないもんね。だから、直葬は叶えてね(笑)」と伝えたり。
生きている限り、いつか死ぬのだ。
それが早いか遅いかはそれぞれで、必ずやってくる。
そんな「死」をタブー視してはならないと思う。
一生を連れ添うパートナーの死であれば、早い内からフランクに話して、少しでも構えているといざという時、心的に救われるのではなかろうか?
では、また次の木曜日。
変わるを受け入れると進化する
自分に関わらず、周りの環境、社会、文化、地域、気候、人間、すべての物事が毎日毎秒変わっていく。
変化していく毎日に適応できず、適応できない自分を正当化し、自分以外が変化していくことに文句を言い始めると、「老化」に一歩を足を踏み入れたのではないかと思ったりする。
当たり前だけど、人間を含むすべての生物は地球という環境の中に生きる。
ただ、人間は文明を発達させることで、本来変わりゆく環境を停滞させようと試み続けている。
外的環境の影響を受けづらい、建物を建て、その中でエアコンやらストーブを駆使して、夏は涼しく、冬は暖かく過ごす。
暗くなれば電気をつける。食材を長く食べるために、冷蔵庫をつける。その他もろもろ。
だから、僕達は機械の力を借りて、安定した生活を送っている錯覚の中で生きているだけに過ぎない。
一方で、そんな錯覚の生活に飼いならされたことで、変化することについていけない人間が増えてきているのではないだろうか?
変化についていこうとしているのは、どちらかと言えば家電メーカーであって、その恩恵を受ける人間ではない。
でも、生身の人間が変化についていこうとしなければ、根本的解決にはつながらない。
そんな変化に適応・順応することが「進化」になるのではなかろうか?
母なる海で生まれた微生物達。
フワフワ漂って、餌が口に入ればラッキー!な生き方をしていては効率が悪い。
餌のあるもとに動くためにヒレをつけ進化をした。魚だ。
そんな魚が海の中に増えると競争が起きる環境に変わっていった。
彼らは陸を目指す。
でも、彼らにはヒレしかない。長い時間をかけてヒレを手足に変えた。両生類だ。
やっと上陸を果たした両生類だが、体が乾くと死んでしまう。
湿地にばかり、両生類が増え、また競争が起きる。
遠出が出来るようになるために、体に鱗を備え、乾燥に強くなる。爬虫類だ。
そして、空を飛ぶこと選んだ鳥類と、卵で産むことよりもより確実に子孫を産むことを選んだ哺乳類へと別れていく。
その傍らで進化できなかった者はどうなったのか?今でも、ひっそり表舞台には立てずに生きているか、絶滅したかだ。
僕達は変わらないことを求めるのでなく、変わりゆく世界の中で僕達自身も変わっていかなければならない。
何故か?答えは明白。
社会の片隅で生きることになるか、絶滅するかのどっちかしか選べなくなるから。
では、また次の木曜日に。
諸行無常
『万物は全て変わりゆくもの』
「万物」はなんて書き方をすると、厳かなイメージを勝手に持って、「自然界」みたいなイメージをするかもしれないけれど、決してそんなことはない。
僕達は当たり前のように文明社会に属し、その文明社会の中で当たり前のように機械を使うようになり、機械なしでは生活できないというところまで来たように思う。
ある意味、機械は僕達を裏切ることはなく、ボタンを押せば要望通りに応えてくれて、壊れることは無い。
ただ、例えば掃除機は掃除するものでだったり、洗濯機は洗濯するものだったりで、それぞれに用途が決まっていて、掃除機で洗濯したり、洗濯機で掃除をすることは出来ないわけだ。
この点で機械は「変わることができない」。
故に、「変わらない」ということに絶大の信頼を置いている。
そして、「変わらない」ということはとてもラクな部分が多い。
こちらの心づもりなりをわざわざ整える必要がないから。
といっても、機械であったり製品であったりも、生産している企業が時代の流れを汲んで、新しいものを作っていけば、それまでの製品は使えないものとなり、最終的に本当に使えなくなったりするんだけどね。
今、現在の色んなアプリが出ては消えていくのも同じような構図だろう。
ガラケーもなくなる運命にあるし。
人も変わる。
「言ってることが違う!」とか言って「わーわー!」言う人が多くて、そう言ってる人達の気持ちもわからんでもないけど、やっぱり変わるのだ。
見えないけれど、確かにあるものに「心」というものがあって、”喜怒哀楽”というものがあって、”喜怒哀楽”なんて単純な言葉で片付かないほど、多種多様な感情が人の心を取り巻いている。
これだけ感情が目まぐるしく変わるってのは、どんな人間でも納得できると思う。
悲しかったり、怒ってたりするから、いつも出来ることが出来なかったり。
喜んでたり、楽しかったりするから、いつもは出来ないことが逆に出来るようになったり。
心が原動力になって、人は行動が変わる。
人の言うことややることが変わるなんて当然のことなんだ。
でも変わってしまうと、その行動を「信頼していたのに!裏切者!」とかプンプンと怒る人が出てくる。
「信頼するな」とは言わない。でも、『人は変わるもの』というベースを受け入れているのといないのでは全然違うだろうなとも思う。
というか、自分以外の他人が変わったやなんやで怒ったりするの、しんどくないのかなぁ?
どんな環境の変化も受け流す、ヤナギの木のようになりたい。
では、また次の木曜日に。