今を学ぶ
前回のプレ教育の話の続き。
未来の不安から、どうせその未来に至った時に学ぶことを先取りして学ばせるのが、プレ教育だと話した。
それは子どもの人生にレールを敷いてしまうようなことであり、レールを進んできただけの人間は自分主体の人生を進むのは難しいのではないか?というお話し。
そもそも、このレールを敷くのにも限界があるでしょうよ。
最終的には、その子を信じることに至ると思う。
それなら、なるたけ早い内にその子を信じられるような仕組みを作って、大人側がそんなメンタルを育てるのが近道ではなかろうか?
そして、大人が何も準備しなくとも、子ども達は”今”をつかみ取って、何かを考え、遊びをつかみ取ったり、出来なかったら違うことを考えて、”今”という時間の過ごし方というか打開策というか、自分で何とかする力を得ていくと僕は信じている。
”今”という時間の過ごし方のプロフェショナルになれば、例え「初めての逆上がり」なんて現場に遭遇しても、「今どうすればいいか」を考え、自分の感情なり、心を律していけるんじゃないだろうか?
事象で考えるから、「あれもしなきゃ、これもしなきゃ。」と不安になる。
でも、突き詰めて考えれば、僕達はその時々の”今”の対応で生きているのであって、めちゃくちゃシンプルな世界で生きているようにも考えれると思う。
だから、今の過ごし方のプロフェッショナルになってもらうのが、僕の中の教育のベースになっているんだろうなぁ。
子ども達と日々過ごしていると、「はぁ!?」と予想もつかないことをしたりする。
でも、その大人から見ればわけのわからない行動を起こすことこそ、”今”への反応が現れている証拠でもあったりする。
大人が出来る子とはそのわけのわからない行動を見守り、ほんの少し手を出すかどうかのぐらいの程度だ。
”未来”を示すのでなく、”今”を手助けしてやるぐらいものだ。
どうせ、僕達が子ども達に指し示せる未来なんて、所詮僕らが経験してきた過去の産物だ。
そんな過去の産物がこれからの未来の役に立たないことなんて、目に見えてる。
逆に言えば、目に見えない人が、子どもの進む先を決めている人種なのかもしれないな。
子ども達を僕達の過去の経験の範疇で収めてしまっていいのか?
僕は子ども達に僕が見れなかった、もしくは見れない可能性ある未来を見てきて欲しい。
では、また次の木曜日に。