奪っていい命

野外で遊んでいると、絶対と言っていいほど「草花を摘む」という場面が出てくる。

抜いた草を物に見立てておままごとをしたり、草かんむりを作ったり、手にすることでじっくりと観察したり。

しかし、大人達の心の中には抜いていい花と抜いてはいけない花があって、「それは抜いちゃダメ!」という表現が出てくる。

抜いていい花ってなんだ?抜いてはいけない花ってなんだ?

 

例えば、タンポポはいくら抜いてもいいけど、チューリップは抜いてはいけない。とか、そんな感じ。

何故だ?一つの理由として、園芸用だからという理由があるかもしれない。

まぁなんだかんだ大人達は理由をつけるであろう。

でも、どちらにせよ、花の種類によって命の重さを軽く見たり、重く見たりしているのは言うまでもない。

つまるところ、「差別」だ。

 

園芸用として生まれた花の命は重く見られ、野山に生まれた花の命は軽く見られる。

「そりゃそうでしょ。」と思うかもしれないが、人間に置き換えてみたら大問題じゃない?

生まれた時点で価値が決まっている。人種差別となんら変わりない。

黒人に生まれた時点で。生まれた文化圏で。宗教観で。

自分の選択によらない部分で、自分の命の価値が他者の視点によって、決まってしまっているのだから。

 

そう考えると、どんな草木でも分け隔てなくブチブチ抜く子ども達の行為の方が、ある意味命を平等に取り扱っているのかもしれない。

そもそも、命を途絶えさせてはいけないという大前提があるから、”良い”とは言い難いけど、種類によって選り分けている大人の価値観に比べると、全然良いのかもしれないなぁとも思える。

 

どんな生き物も、何かの命を糧に生きている。つまるところ、何かを殺しながら生きている。

この殺生はなぜ許されるのだろうか?ここに違和感を感じる人達がベジタリアンやビーガンの道を選ぶのであろう。

命を奪っているという認識があるから、「残さず食べなさい」となるのであろう。

じゃあ食べて自分の身となれば、その殺生は許されるのだろうか?

自分の糧や喜びとなれば、許されるのだろうか?

ならば、花を摘んで幸せな気分になれれば、花は無制限に摘んでいい?

捕まえると楽しいから、虫はたくさん捕まえてもいい?

たくさん人を殺すと楽しいから、大量殺人は許される?

 

命は難しい。

自然が作ったものだから、自然の一部である僕達には画一的な正解を見つけることは出来ないのかもしれない。

でも、正義とは何か。ということは常に考えていなければならない。

 

では、また次の木曜日に。