お金は想いだ
「金を稼ぐ」って言葉があまり好きじゃない
そう言う人は、お金って勝手に湧き出てきてるものって考えてるのかな?なんて思ったりもする。
もちろん、一番初めは印刷するところからだから、ある意味勝手に湧き出てるのかもしれないけれど、基本的にお金って回りまわってるものだと思う。
植物のように種から芽生えるものでもなく、動物のように卵から出てくるものでもない。
何故回り続けられる、ある意味不滅の存在でいられるかというと、何かの代替品に過ぎないからだ。
そもそも、大昔は物々交換であったわけで、何かと引き換えにそれに見合った食べ物であったり工芸品であったり、労働力であったりを交換していた。
その交換するものを、ただただ画一的なものに変えた。それがお金だっただけ。
今まで、お米と引き換えにイモを渡していたところを、お金にした。
今まで、働いたお礼に食べ物を渡していたところを、お金にした。
全てのものに”値段”、”価格”というものをつけて、それに見合う硬貨だったり紙幣を用意した。
概念でしかない”価格”というものを、お金を使うことで見える化した。
それがお金ってやつなんじゃないかなぁ?と思う。
お金が出来たことで便利になった。
今まで、お米が欲しい時は米農家さんの欲しい物を準備しなければならなかったけれど、欲しいものをお金に代替することで考えずに済むようになった。
そんな現象があらゆる場面で巻き起こり、「天下の周り物」となり、「お金があればな何でも手に入る。」となり、お金という概念が物と同じようなステータスを得る事になった。
もちろん、今は物々交換なんて文化はほぼほぼ廃れてしまって、僕たちの身の回りにはないかもしれないけれど、変わらずお金は代替する仕事を担っているように思う。
僕はお金は想いの代替をしていると思っている。
何かを買うとき。「これでお腹が膨れる!」、「これで生活が便利になる!」、「これで自分のスキルが高まる!」。
自分の力だけではどうにもならないものを与えてもらった時に出る言葉は、「ありがとう。」ではなかろうか?
募金をしたり、何かに融資をしたり、今だったらクラウドファンドに支援したりの時は、「頑張ってね!」の想いが込められているのではなかろうか?
この2つだと、お金は「ありがとう。」と「頑張ってね!」の代替をしている。
今、そんな想いを代替したお金が巡り巡って、あなたの財布やあなたの口座にやってきている。
おそらく、何万人の想いの塊であり、1円かつ亡くなった人達も換算すれば、何億人もの人数かもしれない。
そんな想いに大して「稼ぐ」という言葉は、本質的に違うなと単純に思う。
お金を物として見るのでなく、想いとして見る。
そんな価値観を持つことで何か開けることがある気がする。
では、また次の木曜日に。