はじめに

※この記事はトップ固定記事です。

次の記事から、毎週木曜更新しています。

 

「人生とは、真の自分を見つける旅路である。それに失敗したなら、ほかに何を見つけても意味はない」(ジェームズ・ミッチェナー)


当ブログの目的は、著者の「思考の旅」を吐露し、それを観察するだけの、自己満足ブログである!(大体のブログがそうだと思うけど
加えて、日々何かしらの情報をインプットしていても、アウトプットしなければ自分の物とはならないので、そのアウトプットの受け手になっていただきたい。

時には、「その思想は、この思想にリンクするよ。」だとか、「その考え方は間違っている!」とか指摘することで、僕の「思考の旅」を導いてもらえると嬉しい。
そんな感じの自分探しブログです。

 

 

  • 更新日
    個人的に樹木が好きなので「毎週木曜日更新」を目標としたい。
    実はこのブログは4つ目ぐらいのブログ。今回はライフワーク的な位置づけにしたいなぁ。

  → 前回のブログ

stepp.blog.jp

   ちょっとした旅ブログっぽいやつ。よかったらどうぞ。

 

では、次の木曜日に。

大人とか子どもとか

保育、教育に関する記事を書く機会があって、それを書いていると「大人」、「子ども」というワードによくぶち当たった。

なんとなくでこの2つを使い分けて書いていたわけだが、根っこのところでは、

「大人だから〇〇」だとか、「子どもだから〇〇」なんてことはこれっぽちも思っていない。

同じ人間なのだから、ただ生きた年数が違うだけじゃないかと思っている。

でも、事実としてこの2つの言葉が相反する言葉として存在しているわけで、何か折り合いをつけたい欲求があった。

 

自然界における「大人」「子ども」に相当する言葉は、「成体」「幼体」であったり、「成虫」「幼虫」ではないだろうか?

「成虫」「幼虫」で考えると、両者の違いはとても分かりやすい。

『生殖出来るか、否か』だ。僕はこれですっきりした。

 

国語辞典で、「大人」と調べると「成人すること」とある。

”成人” すなわち、”人”に”成る”ということだ。

生殖出来る状態にまで発達することで、人は生物的に人を増やすことが可能になり、生き物としての”ヒト”が完成するということではなかろうか。

18歳になったら大人だ。成人したら大人だ。結婚できる歳になったら大人だ。

これらは人間が制度上で決めたこと。生物学的なことではない。

 

でも、この年齢で決めている”成人”であったり”大人”を深堀していくと、やはり生殖の可否に繋がってくるのではないだろうか。

つまるところ、「精通」したり、「初潮」があったりが、大人と子どもの境目。

 

だからこそ、大人だから社会的常識が必要であったり、子どもに何かを示すための威厳が必要であったりなどは全く関係ない。

ただ、生殖が出来るか否かの差なのだから。

 

では、また次の木曜日に。

輪廻転生

また小地球からの気づきです。

 

僕達人間を含め、全ての生き物、有機物も無機物も地球上に存在するものは、全てが100%地球産だ。

そして、それらすべてが役割を失った時、すべてが地球に還っていく。

有機物であれば、それらは分解者に見えないサイズにまで分解され、土の養分となり、植物達がそれを糧に大きくなって、草丈が伸び、時には果実をつけ、消費者へと命が繋がれていく。

無機物も有機物に比べると時間はかかるかもしれないけれど、最終的に海へとたどり着き、潮の流れで削られて、一番最後にはプレートへと沈み込んでいって、地中奥深くに溜め込まれたり、時には地殻変動で顔を出して地上に戻ってくる。

全てのものが地球の中で生き死にを繰り返して、ぐるぐるぐるぐる循環し続けているわけだ。

 

だから、僕達人間も死んだら巡り巡って、何かに引き継がれていくはずなんだ。

人間の場合は文化圏によって遺体の処理方法が異なるから、それによっても変わってくるけど。

土葬なら野生動物と同じく、土に還って、養分として引き継がれていく。

日本のような、火葬であれば、身体は燃えつくされた果てに大気中にばらまかれ、様々な生き物の体に取り込まれていくのだろう。

 

これが延々と繰り返されているのが、この地球の形。

だから、僕達は1つの命と思っているかもしれないが、数えきれない生き物や物質の欠片の寄せ集めで構成されている。

詰まる所、地球から生まれた小地球達はやっぱりあくまでも地球の一部であって、究極的に考えれば”死”というものは存在しないのではないだろうか?と考えた。

 

でも、理屈として生き物には”死”があって、それらはすべての生き物に訪れる。

地球上にあるものに”死”がないと考えた時、この”死”という概念はなんなんだろうか?

僕は1つの幕が下りただけではないかと考えた。

例えば人間がAさんという人間が死んだとすれば、”Aさんの人間編”という章に幕が下りただけであって、逆を言えば、新たな章の幕が開けたに過ぎない。

それは”Aさんの空気編”かもしれないし、”Aさんのカマキリ編”なのかもしれない。

なんにせよ、新たな物語が”死”と同時に始まっている。

 

これがブッダの考える輪廻転生ってやつなんじゃないだろうか?と勝手に悟ったわけです。

僕達はみんな地球の一部。

地球から生まれて、地球に還っていく。

その人間編を僕は今演じているだけ。

そう考えると生きることがラクになった。

 

では、また次の木曜日。

小地球

前回の記事で、子どもや人間のことを「小さな地球」と例えたのが、すごく胸に引っかかっていて、色々なことを考えるきっかけになった。

 

僕たちの体は100%地球で作られたものだ。

卵子精子が合体して、命の元が出来た。

その卵子精子の元もこの地球で生まれた生き物の物だ。

そして、出来た命は地球のものを食らって、どんどん体を大きくし、知恵を蓄えていく。

僕達の体は全て地球産で出来ている。

姿かたちが違うだけで、本当に小さな地球なわけだ。

 

こんなことを考え始めると、「地球環境問題」ってなに?って思えてくる。

どこかで、人間と自然、すなわち地球は別物だと思っているから、「”地球”環境問題」なんて名前をつけるのだろう。

事実、温暖化とか、異常気象とか、オゾン層が薄くなってるとか、色々あるけれど、地球の問題となっていることは何一つない。

問題となっているのは我々人類の生き方の話である。

そして、我々人類は小さな地球だ。

「地球環境問題」は「人類環境問題」なわけだ。

論点は、小さな地球である僕達がどう解決して生きていくかの話。

 

もっと拡大解釈すると、僕達は小さな地球であるわけだから、自然であるわけだから、人類の起こす数多の問題は、自然発生的に起きているに過ぎないとも考えられる。

例えば、二酸化炭素をたくさん排出することも、外の地域から生き物を持ち込んだりすることも、とんでもない化学兵器を作ることも、小さな地球がしていることと考えれば、どれだけ人間が起こした大問題であっても、「自然の理」だとも考えられる。

 

でも、「自然の理」で色んな問題が起きてしまうのは仕方ないにせよ、それをどう受け取るかは小さな地球ごとで異なる話。

前回書いたように、天災に対抗するには、備えて予防線を張っておくか、起きた後にどう対処するかのみだ。

地球に対して、天災に対して、不平不満をいくらぶつけても、地球は起こったことに対して省みることはないだろう。

 

そんなことを考ええて、全ての人が大いなる地球の一部なんだと思ったら、人間関係が少し楽になった。

ある意味、諦めなのかもしれないな。地球に逆らってどうなるんだっていう。

 

あなたは地球というものをどう考えているだろう?

ただ、僕達が生活しているだけの空間だろうか?

神のような存在だろうか?

なんにせよ、あなたの体は100%地球で構成されている。

 

では、また次の木曜日。

子どもは天災だ

当たり前の話だけど、人間は地球から生まれた生き物だ。

そして、生き物の中でも動物というカテゴリーに属している。

どうも僕たちは「人間」と「動物」と分けたがる性分を持っているけれど、根源的に僕たちは「動物」である。

 

じゃあ、人間ってなんなんだ?

僕たちは、社会に出る事や教育を受ける事で言語や文字といった、学問を学んでいく。

人間にしかなしえないことを学んでいく。

だからといって、〇〇を習得したから動物ではなく、人間になるということはなく、繰り返しになるが、根源的には動物のままだ。

 

僕達は学ぶことで、動物から人間になるのではない。

ただただ、人間らしくなっていくだけだ。

どれだけ年を食った、じいちゃん、ばあちゃんでもやっぱり「動物」という要素をゼロにすることは出来ない。

 

ただ人間らしくなるだけ。

逆に考えれば、生まれたばかりの赤ん坊ほど、動物の要素が強く、人間の要素が弱いと考えている。

「動物」。つまるところ、「自然」だ。

子ども達は「自然」と「人間」の狭間にいる状態ではなかろうか?

 

子ども達は人間の要素が強い大人達にとって、理解不能な行動を良く起こす。

自然なのだ。

なぜ太陽や地球が回っているのか。なぜ雨や雪が降るのか。なぜ地震起きるのか。

それと、同じ。自然なのだから。

 

この頃、そんな風に考えると、子ども達の行動をより寛容に受け入れられるようになった。

泣いたり、怒ったり、突然殴りかかってきたり、執拗に何かを求めたり。

これらは全て自然現象の一部だ。日々の天候と同じように目まぐるしく巡る。

 

ある意味、小さな地球だ。

僕は日々、小さな地球と対峙している。

そんな地球に対して、「晴れろ!」とか、「地震収まれ!」なんて言って何の意味があるのだろうか?と。

まぁ科学技術で地球をコントロールしようとする人間様だからこそ、そう思うのかもしれないけれど。

 

どんな災害でもそうだけれど、僕達に出来るのは”予防”と”備え”だ。

目の前の小さな地球が天災を起こさないようにするにはどうしたらいいか。

もし、天災が起きたとして、対峙する僕達に受け入れるだけの余裕のある心や時間といった、備えがあるだろうか?

 

もちろん、僕達も小さな地球。

同じように時には災害が起きることもあるし、火山が噴火することもあるだろう。

目の前の小さな地球だけでなく、自分に起こり得る天災に対しても備えが出来ているだろうか?

 

子どもは天才と天災のダブルミーニングでした。

 

 

では、また次の木曜日に。

二足の草鞋

コロナが教えてくれたことの一つに、「収入源を1つにしない」ってのがあるんじゃないかと思う。

新型コロナウイルスの登場により、あらゆる業界の業績が悪くなって、あちらこちらでリストラや倒産が多く見られた。

そういった働き先がなくなると生まれるのが失業者だ。

つまるところ、収入源のなくなった人達。

その人達が次に頼るのが失業保険で、その間に別の職を探すことになるんだろうけど、前職よりも条件のいいところを見つけるのは難しいところだろう。

躍起になる。不安が募る。心的状態は悪くなるばかりだろう。

 

今回は新型コロナウイルスという、かなりの強敵?ではあったけれど、これから先の時代、あらゆることがどんどん変わっていって、当たり前のことが当たり前でなくなっていく。

ということは、今まで当たり前に成立していた仕事、業種も当たり前でなくなってくることだってありうる。

デジタル技術が発展して、電子書籍が出来て、紙の本がなくなっていく。

同じように、データで十分だからと、紙の書類もなくなっていく。

CDもなくなり、サブスクリプションのおかげで、レンタル業界も衰退していく。

僕の属する保育業界だって、これからの少子高齢化を鑑みると、順風満帆ではない。

僕も収入源を一つに絞っていると、何か躓いたときにはアウトかもしれない。

 

もちろん、そういうことに備えて、貯金しておくというのも重要な作戦だと思う。

ただ、これも1つの収入源に頼って貯金していたら、溜まることはストップして減るばっかりになる。

だから、何かしら別の収入源が必要だよなぁと思う。

 

これは、何も今やっている仕事をないがしろにしろってことじゃない。

もちろん、今やっている仕事は全うに取りくみ、ダメにならないように策を練りながら進んだ方がいい。

一つのやり方に固執するのでなく、修正したり、選び直したりしながら、歩むってのがベースにはあるけど。

 

今、Youtuberだったり、ブロガーだったり、投資家だったり、実態がなくとも出来ることがたくさんある。

(ちなみに、このブログは完全な備忘録で何も収益を産んでいません。というか、そんなにアクセスない(笑))

何か始めてみるのも手じゃないだろうか?

以前書いたかもしれないけれど、僕も「コロナで株価下がってるなら、今買えばぼろ儲けじゃね!?」と素人考えで株を始めた。

ぼろ儲けじゃないけど、ちょこちょこプラスを産んでて面白い。

単純に新しいことをするのは面白い。新たな視点も生まれるし。

 

では、また次の木曜日。

2021立春

春です。こちらはまだまだ雪景色ですが…

今回のまとめとしては、「変わる」ということかな。

ただし、「変わらなければならない」とか、「変わるべき」とかではなくて、「変わりたい」が起点となっているかどうか。

でも、「変わりたい」って想いを自分の中から探すというか、掘り起こすってのが難しいんだよね。

知らず知らずの内に蓋をしていることが多いんじゃないかと。

そして、その蓋が常識ってやつだったり、具現化出来ていない不安感であったり、親や社会から植え付けられた偏見であったりで、自分の本物の変わりたいを見つけることが難しくなっている。

 

この「変わりたい」っていうのも、結局のところ「やりたい」なんだけどさ。

大人も子どもも等しく「やりたい」が大事。僕の根っこはここだ。

 

最近書くことなくなってきつつあるから、今度また書きます。

 

では、また次の木曜日。

今を学ぶ

前回のプレ教育の話の続き。

 

未来の不安から、どうせその未来に至った時に学ぶことを先取りして学ばせるのが、プレ教育だと話した。

それは子どもの人生にレールを敷いてしまうようなことであり、レールを進んできただけの人間は自分主体の人生を進むのは難しいのではないか?というお話し。

 

そもそも、このレールを敷くのにも限界があるでしょうよ。

最終的には、その子を信じることに至ると思う。

それなら、なるたけ早い内にその子を信じられるような仕組みを作って、大人側がそんなメンタルを育てるのが近道ではなかろうか?

 

そして、大人が何も準備しなくとも、子ども達は”今”をつかみ取って、何かを考え、遊びをつかみ取ったり、出来なかったら違うことを考えて、”今”という時間の過ごし方というか打開策というか、自分で何とかする力を得ていくと僕は信じている。

”今”という時間の過ごし方のプロフェショナルになれば、例え「初めての逆上がり」なんて現場に遭遇しても、「今どうすればいいか」を考え、自分の感情なり、心を律していけるんじゃないだろうか?

 

事象で考えるから、「あれもしなきゃ、これもしなきゃ。」と不安になる。

でも、突き詰めて考えれば、僕達はその時々の”今”の対応で生きているのであって、めちゃくちゃシンプルな世界で生きているようにも考えれると思う。

だから、今の過ごし方のプロフェッショナルになってもらうのが、僕の中の教育のベースになっているんだろうなぁ。

 

子ども達と日々過ごしていると、「はぁ!?」と予想もつかないことをしたりする。

でも、その大人から見ればわけのわからない行動を起こすことこそ、”今”への反応が現れている証拠でもあったりする。

大人が出来る子とはそのわけのわからない行動を見守り、ほんの少し手を出すかどうかのぐらいの程度だ。

”未来”を示すのでなく、”今”を手助けしてやるぐらいものだ。

 

どうせ、僕達が子ども達に指し示せる未来なんて、所詮僕らが経験してきた過去の産物だ。

そんな過去の産物がこれからの未来の役に立たないことなんて、目に見えてる。

逆に言えば、目に見えない人が、子どもの進む先を決めている人種なのかもしれないな。

 

子ども達を僕達の過去の経験の範疇で収めてしまっていいのか?

僕は子ども達に僕が見れなかった、もしくは見れない可能性ある未来を見てきて欲しい。

 

では、また次の木曜日に。